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blog start 20060817
「灯、ちょっといいか、明日なんだけど」
背後からふいに聞こえた声に、灯はハッとして窓にかけた手を離した。
「灯?」
「カーテンを…」
閉めようとして、と言いかけた灯は半ば予想していた窓の外の光景にたじろぎ、息を呑んだ。
そこには誰の姿も無かった。
激しい動悸を抑える事が出来ず、灯は窓枠に手を突いて俯いた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
貫が心配そうに覗き込んで来る。
その晩灯は微熱を出して寝込んでしまった。貫はここへ来てからの灯の様子が以前とは全く異なっていた事を感じてはいたが、あえて深くは詮索せずにいた。
灯がこちらへ来てからというもの、毎日のように灯の母である貫の姉から電話があった。灯は迷惑をかけていないか、あまり長く滞在するのは貫の迷惑になるから早く帰るよう伝えて欲しいという内容で、かかって来る度灯に取り次いで欲しいと言われたが、貫はそうしなかった。
姉の灯への執着は、結婚前には自分に向けられていたものだった。悪気は無いのは分かっていても、それを疎ましく思ってしまう心が貫を郊外のこの街へ転居させた。
自分が灯に対して親身になってしまうのは、その姉の執着を現在一身に受けている灯に対する罪滅ぼしの意識が働いているのかもしれないと貫は考えてしまう。
「ごめんな、側にいられなくて」
赤い顔をして眠る灯の寝顔を見ながら、貫は呟いた。
叔父の家に来てから、一週間が過ぎようとしていた。
灯は森の家にはあれ以来なんとなく近付けずにいる。
その日は夕方から急に暗雲が立ち込め、雷鳴を伴った強い夕立になった。灯は自分の部屋に宛がわれた座敷で、外の雨音に耳を傾けながら本を読んでいた。貫は仕事をしているのだろう。家の中は外の喧騒とは打って変わり、静まり返っていた。
ふいに、灯は座敷の窓を叩く、雨音とは異なる音に気が付いた。不審に思い、窓際に近付いた所で窓の外を凝視し、息を呑んだ。
窓の外に立っていたのは、あの日森の家にいた徇という青年だった。
黒い傘を差し、青ざめた顔でずぶ濡れになって徇はそこに佇んでいた。夕立の強い雨は、傘など微塵も役立たない事を示している。
灯は思わず窓辺のカーテンを引こうとした。しかし思うように指は動かず、そのまま徇と窓ガラス越しに対峙する形になる。
徇の、形の良い唇がふいに動いた。
「どうして来てくれないの」
夕立の最中、窓ガラス越しに、囁く声が届くはずは無かった。しかし、その声は灯の耳に届いていた。
灯は全く動くことも出来ず、ただ徇の様子を凝視していた。
「ずっと待っているのに」
再び徇が口を開き、その目線が灯の物とぶつかる。それと同時に灯は窓の鍵に手を掛けていた。
森の入口へたどり着いた時、灯は先程と辺りの様子が異なる事に気付いた。
何が、という事はない。
徇の家の庭で夕闇に霞始めていた空は、まだ真昼の光をたたえていたのだった。
「どうして…」
口に出してはみたものの、灯はそれ以上深く考えるのをやめた。自分が足を踏み入れようとしている何かが、言葉や常識の範囲で考えられる事を超越しているのに気付いたからだった。灯はとにかくこの場を離れたい一心で、森を抜け、家路を急いだ。
玄関をくぐると、家の中は先程灯が出かけた時と変わりなく、明るい静けさを保っていた。
「ずいぶん早かったな」
ふいに声を掛けられ灯はびくりとした。ちょうど貫が自分の部屋から顔を出したところで、見ると湯のみを手にしている。飲み物を取りに出てきたのだろう。
「どうかしたのか?」
貫は訝しげな顔を向けてくる。灯はただ黙って首を左右に振る事しかできなかった。
「ああ、いつの間にか随分時間が経ってしまったね」
徇は灯の気持ちを代弁するかのごとく、晩霞に彩られる水平線を眺めながら言った。
「あの、僕はそろそろ」
灯は少し慌てた素振りで椅子から立ち上がった。
「あの夕焼けと夜空の境目の色は、昔を思い出させる」
徇はまるで灯の言う事など聞こえていないという風に、水平線を見詰め続ける。
「あの、お茶、ごちそうさまでした」
灯は身を乗り出すようにして、先ほどよりも少し大きな声ではっきり言った。徇は一度目を閉じ、ゆっくりと開くと、灯の方へ顔を向ける。
「ああ、悪かったね」
それは少し棘を含んだ声色で、灯はたじろいだ。しかし徇がこちらを向いたのを幸いと、ぺこりと頭を下げ、通用門に向かって歩き出す。
「灯」
ふいに、後ろから呼び止められ、そのまま知らぬ顔をして帰ろうとしていた灯だったが、何故か、足は動きを止めた。まるで灯の意思など通じていないかのように。
「また、来てくれるね?」
その声に、灯はうつむき、ぎゅっと目を閉じた。もう来てはいけないと、灯の中の本能が絶えず繰り返している。しかしまた、ここを訪れたいとどこかで願っているのも本心だった。
灯はそっと振り返る。
「機会があれば、また」
灯が振り返ったそこには、荒れ果てた庭が広がり、屋敷の窓はぴったりと閉じたままだった。
灯は全速力でその場を去った。
「自己紹介がまだだった、僕は徇と言います。君は?」
「灯です」
「あかり、良い名だね」
徇は噛み締めるように言い、カップを口に運ぶ。その口元は先ほどからずっと微笑んだままだ。
「徇さんは、ひとりでここに住んでいるんですか?」
灯もカップに口を付けながら先ほどからずっと気になっていた事を尋ねた。
「うん、色々あるんだ」
優しいながらもそれ以上の詮索を許さない口調で徇は答えを濁す。灯はそれ以上質問するのを諦め、水平線に目をやった。すると、自分の横顔をじっと見詰める徇の視線を頬に感じ、顔を戻すと徇は灯が見ていた水平線を見詰めている。不思議に思い、また水平線に目をやると、やはりこちらを見詰める視線を頬に感じた。
灯は目線を戻さず、しばらく黙って水平線を見詰めていた。
「灯はどうしてここへ来たの?」
唐突に声を掛けられ、ただぼうっと海を見詰めていた灯は驚いて徇の顔を見やる。
「え…?」
「君はこの地元の人ではない、そうでしょう?」
「え、ええ」
返事を返す灯がふと気付くと、辺りは夕闇に包まれつつあった。一体いつの間にそんな時間が経ってしまったのか、灯は思わず辺りを見回す。